みねちんにっき(仮)

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お芝居二本その2:「いのうえmeetsシェイクスピア リチャード三世」

これを書いてるのは、シェイクスピアは昔蜷川のハムレット真田広之だったかなー)をみたことがあるくらいな人なのでそこんところ注意。


古田新太のリチャード三世は、醜い容姿をコンプレックスにしている、と冒頭では言うが、実はコンプレックスではなくて、それも自分と、冷静にせせら笑っているという印象を受けた。ICレコーダに吹き込んでいるという状況と、冷静な口ぶり、己について分析している演出全体からそう思ったのだけれど。不思議なのだが、いつも彼が演じる役には、一歩、物事から距離を置くような冷徹な視線を感じる。それが、懐の大きい、深い悪役に通じてるんじゃないかと思うんだが……リチャード三世は見事にそういう感じ。
じゃあ”リチャード三世”は何のために謀略を巡らし邪魔者を排除し人を騙して王座へ上り詰めるかというと、純粋にそうしたかったからじゃないかという印象がある。暇つぶしというか。王位がほしかったからというより、そういうゲームをしたのだという印象を受けた。
それがとても面白かった。


”馬をかせ、馬を!馬はないか、褒美にこの国をやるぞ。”


この台詞を聞いたとき、楽しそうだなぁ、と思ったのだった。死の、破滅の間際にあっても、”リチャード三世”は興奮し戦いに我を忘れてこの言葉を発する。イングランドも王冠も、それはただの、ゲームの勝ちで得た副賞。
登場人物は皆、盤上の駒。


天幕で亡霊を見るシーン。確かに脅され怯え震えて目覚める。目覚めればもちろん亡霊は去っている。夢だから。だが、最後に己という殺人者を排除できないことに”気がつく”。
このシーンがすごくよかった。静かで、ずん、と来る。亡霊に脅されたときの叫びよりも、ある意味怖ろしいのだろうなと思う。
この男の、身喰いするほどの、がん細胞的な、破壊への衝動といおうか、それに己で気がついてしまう、己の影を覗き込んでしまった瞬間とでも言おうか……。そんな印象をうけた。


シェイクスピアについては、役者さんには台詞が大変そうだけど、ちゃんと聞かせてくれるとすごく面白いし、何より描かれている人間が面白いのですごいと思うんだけれど、いろんな役の人がいつの間にか出てきてたり区別がつきにくかったり、その辺はどう演出でがんばってくれてもわかりにくいよなぁと思う。まあ、400年も昔の演劇だからそういうやり方が普通だったんだろうしそれはしょうがないかなと思うけれど。
ただ、そういう難しい部分も含めて、挑戦しがいのある脚本なのかな、とも思った。


どうしても古田新太に終始してしまうけれど、ほかの役者さんも素敵だった。
はじめてみたのだけれどバッキンガム公役の大森博史さんは何か印象に残っている。ヘイスティングズ卿役の山本亨さんは「ああ、山本さんだ!」とうれしくなる存在感。髪の毛を妙なしぐさでいじるのは「髑髏城の七人(アカドクロ)」と同じ、じゃないかな。
それと、銀粉蝶三田和代久世星佳三后は印象強くていい。口跡がきれいで迫力があって嘆きがこもっていて、シェイクスピアの長台詞を楽しませてくれた。ああいう嘆きの台詞って、ある意味、泣き女みたい?とかわけのわからないことを考えたがどうでもいい。


3時間半かな、けっこう長いし、普段の新感線のようなエンターテインメントばりばりとはいかないけれど、私は面白かった。稀代の悪役なんだけれど、「朧の森に棲む鬼」のように爽快感にはならないのだけど、もうちょっと屈折した、でもどこか、そのどこまでも前のめりな在り方に感銘を受けさせられてしまうような、……そういう”悪”だった。